株式会社小野不動産建設Natural&HappyLife

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相談
大学生の女子。何をしていてもあのことばかりを思い出してしまいます。
あの日、私は祖母と一緒に逃げました。
でも祖母は坂道の途中で、「これ以上は走れない」と言って座り込みました。
私は祖母を背負おうとしましたが、祖母は頑として私の背中に乗ろうとせず、怒りながら私に「行け、行け」と言いました。
私は祖母に謝りながら一人で逃げました。
祖母は3日後、別れた場所からずっと離れたところで、遺体で発見されました。
気品があって優しい祖母は私の憧れでした。
でもその最期は、体育館で魚市場の魚のように転がされ、人間としての尊厳などどこにもない姿だったのです。
助けられたはずの祖母を見殺しにし、自分だけ逃げてしまった。
そんな自分を一生呪って生きていくしかないのでしょうか。
どうすれば償えますか。
毎日とても苦しくて涙が出ます。助けて下さい。
 
案内
お手紙を読みながら涙が止まらなくなりました。
こんなに重い苦しみの中でどんなにつらい毎日かと思うとたまりません。
ただあなたは祖母を見殺しにしたと思っていらっしゃいますが、私にはそうとは思えません。
おばあさまはご自分の意思であなたを一人で行かせたのです。
一緒に逃げたら2人とも助からないかもしれない、でもあなた一人なら絶対に助かる。
そう判断したからこそ、あなたの背中に乗ることを頑として拒否したのでしょう。
おばあさまは瞬時の判断力をお持ちでした。
その判断力は正しくあなたは生き抜いた。
おばあさまの意思の反映です。
人はどんな姿になろうとも外見で尊厳が損なわれることは決してありません。
たとえ体育館で転がされるように横たわっていても、おばあさまは凛とした誇りを持って生を全うされたと思います。
おばあさまの素晴らしさはあなたの中に受け継がれていることを忘れないで下さい。
おばあさまが生きていたらかけたい言葉、してあげたいことを、周りに居る人たちにかけたり、してあげたりして下さい。
そのようにして生き抜くことが憧れだったおばあさまの心を生かす道に思えます。
 

2011年5月23日 読売新聞より


 
感動の二作品
岩手の友人が送ってくれました。感動の二作です。
 
  まごころの配達

 
「将雄だね、今まで何処にいたの!」
 
  興奮をして叫ぶ声を聞いて玄関に出てみると、九十八歳の母が、郵便配達に来た若い青年に抱きついていました。
  将雄、それは六十年前に戦死した長男の名前であり、痴呆の進んだ母はその青年を見て、自分の子供が帰ってきたものと勘違いしたのですが、確かにその青年は亡くなった長男によく似ていました。
 
  事情を知った青年は、気さくに話を合わせ、
「お母さん、また来るよ!」
と言いながら笑顔でバイクにまたがり、走り去っていきました。
 
 それからの母は、一日も欠かさず、
「お母さん、おはよう」
と言いながら、青年から渡される郵便を受け取り、うれしそうに手を振って見送るのが日課になりました。
 
 母と青年の不思議な親子関係は二年ほど続きましたが、残念なことに母は百歳を目前にして、将雄の名を、うわ言で言いながら亡くなってしまいました。
 
 それを知った青年が、突然、告別式に母の好きな菊の花を持って現れ、涙を流して焼香する姿を見て、改めて痴呆の母を本気で励ましてくれた、彼の温かい心に感動させられました。

 
  花のおじいさん

 
  家の近くの三角公園。とても綺麗に花壇が手入れされ、季節季節に色とりどりの花が咲き、私たち通行人を楽しませてくれていた。
 
 その花壇を一生懸命造り、道行く人に挨拶をしてくれていたおじいさん。
 
  「定年退職したが、庭いじりしたいのに庭がない。それで勝手に、ここに花を植えた。最初は公園の管理人に叱られると思ったが、何も言われなかったので、調子に乗ってこの通り」
 と、ユーモアたっぷりに微笑んで話してくれた。
 
  町内をはじめ、多くの人にその花壇が目に留まり、おじいさんはだんだん有名になっていった。そして遂には、市から「親切おじいさん」として表彰もされた。
 
  しかし、そのおじいさんは二年前に亡くなり、十五年間美しかった公園も荒んでしまった。
 
  ところが、先日公園の前を通り掛かると、なんと、綺麗になっている。気になってその近所の人に尋ねてみると、第二のおじいさんが手入れをしていると言う。
 
  聞けば、その人はこの花壇にいつも癒されながら通勤し、亡くなったおじいさんに感謝していた。公園が荒んでいくのが堪らなく、自分が退職したら、その花壇を引き継ぎたいと思ったらしい。違う町に住むその人は、自転車で花壇まで通って来ているそうだ。
 
  私は、この話を聞き、あの「親切なおじいさん」を思い出した。そして、その親切の連鎖の素晴しさに胸が熱くなった。
 
  今度、第二のおじいさんにお会いしたら、言いたい。「ありがとうございます」と。
 


2011年1月22日



雑誌
 

学生のころ父親が購読していた文藝春秋を手にして読み始めたのがきっかけでした。
それ以来40年以上毎月読んでいます。

まず最初に読むのは写真集などの次にくる随筆集。
最近では阿川弘之氏が担当していましたが今年になって高齢を理由に降板しました。
この中で記憶に残っているタイトルは「国を思って何が悪い」でした。
今月、阿川氏が執筆していたら、多分 尖額諸島問題を取り上げたでしょう。
阿川氏の前は司馬遼太郎氏でした。
「この国のかたち」を連載していました。
単行本になっています。

文藝春秋の今と昔

「帷幄(いあく)奏上権」、「統帥権」などを勉強させてもらいました。
 
二番目に読むのは最近ではこのコーナーの最後にある塩野七生氏の「日本人へ」です。
海外から見た日本を批評し警鐘をならし、分析してみせます。
「ローマ人の物語」を読んでからすっかりファンになりました。
「断じて…である」が塩野氏の文癖です。
この人のリーダー論、特に宰相としてあるべき理想像は価値があると思います。
まさに、賢者は歴史に学ぶ、です。
 
三番目は赤坂太郎の政治、政局コーナー。
赤坂太郎は長く執筆しており誰なのか不思議に思っていましたが、
どうやら複数の政治評論家が交代で執筆しているようです。
  
それから次は特集などに目がいきます。
5年ぐらい前までは全体の八割ぐらいは読んでたと思いますが
年々その率は下がっているような気がします。
 
最後は巻末の社中日記。
私のブログもこのくらい面白いともっと人気が出る気がします。
 
これからも長く読みたいと思っています。
 

2010年11月13日



団塊世代のつぶやき

戦後引き上げてきた兵隊が帰国、帰郷し結婚し生まれた子供、昭和21・22・23・24年ごろの世代を団塊の世代と呼びます。
昭和40年代に元通産官僚の堺屋太一氏が出版した本のタイトルがすっかり定着しました。
 
私もその中の一人です。
小学校はもちろん戦前からの古い木造校舎(都会では鉄筋コンクリート造りもあるようですが)で教室もなんとなく暗い雰囲気でした。
 
私の行った古河第一小学校は学年が9クラス、1クラス55名の定員でした。
今では考えられない人数です。
3学年前は5クラスだったことを思えば2倍近くに増えたことになり、以降、中学校、高校、大学まで常にクラスが増え定員増となり急造の教室を学年の数クラスは使うことになります。
急造の教室はプレハブの場合や理科の実験室、音楽教室があてられました。
 
生徒達の気質を思い起こしてみると、基本的には独立心は強く人に頼らないことがあります。
人数が多くて誰も十分に面倒を見てくれなかったし、また国も家庭も経済的には困窮していたこともあり、子供に十分に手をかけられなかったからでしょう。
ただ一方では、興味が無いことには要領よく手を抜くのが上手く、高学年になるにつれてその手法は向上していきます。
これも多人数の中の処世術の一つでしょうか。
 
昭和41年ごろは高校卒業時ですが、大学紛争の最中です。
大学の校門は封鎖され、学校は荒れています。
東大が入学試験を見送ったのも前代未聞の出来事です。
団塊世代のエネルギーが自己主張と団結を表したことと思います。
 
就職時はたいへん好景気でした。
日本の第一次高度成長期で、どこも人手不足で職を探す必要もそれほどありませんでした。
給料もどんどん上がり、私が大学を出て就職した昭和45年は初任給2万円から倍の4万円になりました。
今では信じられないことですが。週休2日も導入期でその後3、4年で日本のほとんどの会社は週休2日が当たり前となり、今の勤務形態が完成しました。
 
車を昭和50年の初めは持つことができたし、ハワイ・グアム・米国などは初めての海外旅行の最有力候補地でした。
まだ1ドル360円で海外への持ち出し金は限られていましたが、その後240円を経て自由変動制に移行します。
しかし、いよいよ先進国の仲間入りです。
 
同級生や先輩と飲むといつも話がでます。
「卒業までは競争が激しかったけれど、良い時代に生まれたよなあ。」
「戦争はなかったし、自由はあった。旅行にしろ生活にしろ窮屈な縛りはなかったよ。」
「音楽、映画、スポーツ、更には技術やビジネスまでも世界に通用し、更には世界をリードするまでいったよなあ。」
「敗戦でゼロから出発し、世界第二位の経済大国になったんだから。」
 
しかし、これから5〜10年すると我々団塊の世代は時間と体を持て余し、世の中に溢れ出てきます。
そして、また存在を主張することになるのでしょうか。
そのエネルギーを最大に発起し世の中にアピールするでしょうか。
いづれにせよ一時代を築く文化を創り出すことになる予感がします。

2010年9月21日

 
 
尊敬する盛岡の友人が送ってくれたショートストーリーです。
縁を生かす

その先生が5年生の担任になった時、
一人、服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいた。

中間記録に先生は、少年の悪いところばかりを記入するようになっていた。

ある時、少年の一年生からの記録が目に止まった。
「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。勉強もよくでき、将来が楽しみ」とある。

間違いだ。他の子の記録に違いない。

先生はそう思った。

二年生になると
「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」と書かれていた。

三年生では
「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」

三年生の後半の記録には
「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」とあり、

四年生になると
「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子どもに暴力をふるう」

先生の胸に激しい痛みが走った。

だめと決めつけていた子が突然、
深い悲しみを生き抜いている生身の人間として自分の前に立ち現れてきたのだ。
先生にとって目を開かれた瞬間であった。

放課後、先生は少年に声をかけた。

「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?
わからないところは教えてあげるから」

少年は初めて笑顔を見せた。

それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。

授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。
少年は自信を持ち始めていた。

クリスマスの午後だった。
少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。
あとで開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。

先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。
雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、
気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。

「ああ、お母さんの匂い!きょうはすてきなクリスマスだ」

六年生では先生は少年の担任ではなくなった。
卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。

「先生は僕のお母さんのようです。
そして、いままで出会った中で一番すばらしい先生でした」

それから六年。またカードが届いた。

「明日は高校の卒業式です。
僕は五年生で先生に担任してもらって、とても幸せでした。
おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます」

十年を経て、またカードがきた。

そこには先生と出会えたことへの感謝と
父親に叩かれた体験があるから患者の痛みがわかる医者になれると記され、
こう締めくくられていた。

「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。
あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を、神様のように感じます。
大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、五年生の時に担任してくださった先生です」

そして一年。届いたカードは結婚式の招待状だった。

「母の席に座ってください」と一行、書き添えられていた。

 心に響く小さな5つの物語 より
2010年8月23日



再びの往復書簡

2010年5月5日 T氏からのメール
  
 特攻基地・知覧で「母」を想う
 4月26日(月)、D連合の九州会議が開催されるとあって、鹿児島に出張した。その前日、桜島が噴火したという。そういえば町中が灰っぽかった。
 鹿児島に来て、ちょっと時間があったので、車で一時間ほど下ったところにある知覧に寄った。知覧を訪ねるのは、今回が初めて。知覧は、お茶や武家屋敷跡で知られているが、何といっても特攻基地が置かれていた知覧として有名である。
 特攻平和会館に立ち寄った。沖縄決戦の際、爆装した飛行機もろとも肉弾となり、敵艦に体当たりした特別攻撃隊員の遺影、遺品、記録など貴重な資料が収集、保存、展示されている。中でも、家族や知人に宛てた遺書、手紙が山ほどあり、みな達筆でしっかりと綴られている。あまりの悲惨さに胸が痛み、その数々を直視することさえできなかった。
 平和会館の東隣に、三角兵舎が復元されている。松林の中に半地下壕をつくり、屋根には杉の幼木をかぶせ擬装し敵の目をあざむいたという。案内板によると、この三角兵舎は、「2〜3日後に雲のかなた沖縄の空に散華する運命の隊員の宿舎となったところ。出撃の前夜は、この三角兵舎で壮行会が催され、酒を汲みかわしながら隊歌をうたい、薄暗い裸電球の下で遺書を書き、また別れの手紙をしたためて、出撃して征ったのです」とあった。
 三角兵舎から少し離れたところに特攻像「とこしえに」や、「やすらかに」と名づけられた母像とともに、ひとつの碑を発見した。その碑文には、「帰るなき機をあやつりて征きしはや 開聞よ 母よ さらばさらばと 鶴田正義」とある。何とも不憫でいたたまれない。
 「母よ」、そういえば手紙や遺書に、母への感謝の言葉が多くあった。もちろん、父親や兄弟に宛てたのも多くあったが・・。
 平和会館のある知覧平和公園の近郊に「ホタル館富屋食堂」がある。ここに立ち寄る時間的余裕はなかったが、ガイドブックによると、若き特攻隊員の母として慕われた鳥濱トメさんが食堂を営んでいたところ。トメさんは、大切な着物を米や魚にかえて、出撃前の特攻隊員たちにふるまい、人に明かせぬ彼らの悩み、悲しみ、恐れを聞き取り続けたという。トメさんは、特攻隊員にとっては、死を前にしてなお会えぬ「母」そのものであったのだろう。
 母に宛てた特攻隊員の「私は親不孝者でした」との手紙があった。この手紙を受け取った母は、どう読んだのだろうかと想像すると絶句してしまった。
 ところで、5月の第2日曜日は母の日。母への感謝を表す日である。同じ5月の5日はこどもの日。このこどもの日について、国民の祝日に関する法律(祝日法)では「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」とある。「こどもの日は母の日でもある」のだ。(フリー百科事典『ウィキペディア』)
 特攻基地・知覧で、わが母の顔が浮かんだ。母は、今の時代、若くして亡くなり、私はすでに母親より長生きしている。母はきっと思っているに違いない。「おまえのような不幸者の老いた姿など見たくはなかったからね」と。私は正真正銘の親不孝者なのだろう。
 
 
T氏へ返信
 
 知覧旅行記拝読しました。
 私も二度ほど行きました。知覧は陸軍の特攻基地ですが、記念館にはなぜか錦江湾から引き上げられた実物の海軍戦闘機零戦52型が展示されており、最初は少々違和感があったのが印象に残っています。
 特攻に散った人々の多くの遺品が陳列されていますが、一つ一つどれもが当時を想うと私も落涙を禁じ得ませんでした。
 三角兵舎の一夜はどんなだったか、考えても考えても彼らの想いには遠く及びもしないことです。
 展示品のスケールにおいては靖国神社の展示館のほうが大きいのですが、この地から特攻機が飛びたったという事実は大きな説得力があります。
 戦史跡に限らず歴史的な跡地に行ってみるといつも少しの失望を感じます。沖縄、長崎、平泉、鹿児島など日本の歴史の大きな転換の地ですが、いずれも共通しているのは「きれい」すぎること、です。保存、歴史のままを保つことは大変難しいとは思いますが。その点で生の歴史を感じることができるのは、現在は硫黄島だろうと思います。当地は一般には見学できず当時のままの状態であると思われます。許されることならぜひ一度行ってみたいものです。

 さて上記の文を書いて中途で数日おいている間にたいへんな出来事がありました。頭をハンマーで殴られしばらくは立ち直れない、くらいの衝撃です。

 それは仕事で守谷から足利に移動する車に入った一本の電話です。
『小野君は民主党は支持者?』
「・・・・」
『日本では鳩山総理の評価はどうなの』
「?!」
『アメリカでどう言われているか知ってる?』
「ニューヨークタイムズに愚かな総理と書かれたのは知ってるけど」
『ワシントンポストよ』
「どうしたの、なにかあった?」
『いま私は日本人であることがはずかしい』
「いやあー困ったな」
『日本は国家として防衛をどう考えているの。普天間の海兵隊の抑止力をいまごろ認識するなんて、外国人に参政権を。いったいどこまで周辺諸国に馬鹿にされれば気がすむの』
『アメリカに住むと日本が見えるのよ。しっかりしてよ』
東北道を走る車中(車は車中電話が可です)で約3〜40分、ガンガンと耳に、いや胸に衝撃を受けました。
 彼女は中学校の同級生で、結婚してアメリカに住んでおり4〜5年前に連絡はあったものの突然の電話でした。彼女は普通の専業主婦で特に政治に関心を持った活動家でもありません。
 電話の様子から日本が心配でたまらない、なんとかしなくては。と、居ても立っても居られないのが手に取るようにわかり、しかも日本に住む日本人がそのことに関心がなく外国から嘲りを受けている認識がないことに苛立っているのが十分にわかりました。まさに地球の裏側で地団駄を踏んでいるようです。また彼女一人ではなく在留邦人が等しく持っている危機意識のようです。
 電話が終わってしばし呆然、気がついた時は降りるインターを通り過ぎ次のインターでUターン、更に戻りも降りるインターを通り越しやむなく一つ手前で降りて目的の足利に。おかげで1時間も遅刻してしまいました。
 彼女の心配はもっともで私も何の異論もありません。出来ることならなんとかしたいとは思いますが、さてこの問題で私になんらかの貢献ができるのでしょうか。
あの時以来ずっと頭、いや胸に残り悩んでいます。

2010年5月10日


  
 
渡良瀬川畔の散策
 
ぽかぽか陽気に誘われて川のほとりを行きました。
 
セキレイが一羽、尾羽をふるわせて歩き、椋鳥が群れて
飛び立ちます。目白が二羽、落ち着きのない飛翔をつづけます。
 
野の花は未だ咲かず土の中。
春は遠く風だけがゆっくり頬をなでて往きました。
 
山並みは遠く銀の烏帽子を冠り、
近くのは薄墨の影絵のように取り巻いています。

 

 森羅万象 春遠からじ   永久に続く 生命の営み

 

2010年1月17日

 
 

「坂の上の雲」のあとさき

 
今年(平成21年)11月より、いよいよNHKが「坂の上の雲」を放映します。
制作に3年かけたとのことでたいへんな力作であることは間違いなく大きな期待をしています。
私はこの小説を2回読んでいますが、2回とも夢中になり巻が進む度に新たな発見と感動を覚えました。作品中に示されている作者の歴史認識−いわゆる司馬史観−がそれまでの通説を裏付けることも、またまったく逆に覆すものも多々ありました。
今月(平成21年11月)の文芸春秋(12月号)に「日本人の20世紀−坂の上の雲のあとさき−再録」が掲載されました。その要旨をピックアップし、さらに私なりの考えを加えてみました。

 

   20世紀の開幕早々日本はロシアの南下を防ぐという戦争(日露戦争)を経験しました。そのことを「坂の上の雲」という小説に書いたことがあります。地球の中の一角にある島国におこった、不思議な心の物語として書きました。

   この書き出しで始まります。「心の物語」として書いているのが注目されます。      

 

   この戦争を境にして、日本人は19世紀後半に自家製で身につけたリアリズムを失ってしまったのではないかという気がしないでもありません。

   作者は日露戦争以降、特に太平洋戦争の敗戦までをそこに及ぼす因子が全て胞子として生まれていたと考えていると思います。      

 

   日本の通弊というのは為政者が手の内―特に弱点―を国民に明かす修辞というか、さらに言えば勇気に乏しいことですね。この傾向はずっと後まで続きます。日露戦争の終末期にも日本は紙一重で負けるという手の内を政府は明かしませんでした。明かせばロシアを利する、と考えたのでしょう。

   しかし戦争の当事国のリーダーが戦争中に「紙一重で負ける」とはいわないでしょう。歴史的にそういう事実はあるのでしょうか。米国は第二次世界大戦中に財政危機に陥り国債発行の折にそれに近いキャンペーンを張ったことはあるようですが。

 

   石油を他から輸入するしかない大正時代の日本は、正直に手の内を明かして、列強なみの陸海軍はもてない、他から進入を受けた場合のみの戦力にきりかえると、そう言うべきなのに、おくびにももらさず・・・中略・・・不正直というのは、国をほろぼすほどの力があるのです。

   20世紀の戦争はまさしく石油による戦争でした。石油がなくては戦争ができません。以前映画「パットン軍団」を見たことがあります。ここでも大戦末期のヨーロッパ戦線で最後の独軍の強力戦車による反撃が石油がないために進撃できず敗れるという事実が描かれています。しかし専守防衛(この言葉は現在普遍化していますが)を持ち出すことが出来るのは政治家なのか、軍人なのか、当時の状況では両者とも到底不可能と思います。

 

   日露戦争がなぜおこったかは・・・中略・・・基本的には朝鮮半島問題をめぐる国際紛争でした。・・・中略・・・いまから思えば、その後の日本の近代は、朝鮮半島を意識し過ぎたがために、基本的な過ちを犯していくことになります。

   ロシアの圧力が朝鮮半島を経て日本に及ぼすという強迫観念が日露戦争の背景にあったということです。「その後の日本・・・」に限らず日本の近代化の揺籃期にも西郷隆盛が「征韓論」を称えて西南戦争に至ることを思えば「その後」のみならず「その前から」朝鮮半島問題が日本に大きな影響を与えていたことになります。

 

   満州の*戦軍の総司令官として出征する 大山厳 も軍配(アメリカの仲介)のこと、よろしく≠ニ言い残して出かけます。勝ちたい戦争だが、外交によってなんとか歯止めをする≠ニいう土俵ぎわの覚悟と自分の弱みを、軍自身が、手の内を十分に明かしたのです。

   太平洋戦争直前に時の内閣総理大臣 近衛文麿 に米国との戦争の勝算について聞かれた海軍連合艦隊司令長官 山本五十六 は「1年や2年は十分に暴れて見せますが、それ以降は責任を持てません。」と答えています。この言葉は 大山厳 よりももっと具体的に解りやすいと思われますが、政治には生かされませんでした。そこが大きな違いです。「責任を取れません」ではなく「敗けます」と言うべきだったと後にいう人もいますが、結果は同じことと思います。要は国家の指導者に勝てる確率を生かす大政治家がいなかったということでしょう。

 

   昭和初期の日本人の意識を知る上で象徴的なのは、1939年(昭和14年)のノモンハン事件かもしれません。・・・中略・・・関東軍の独走に対し、この幻影のような積木を追認したり、糊塗したりするだけでした。軍部の“謀略”は多分に子供じみていましたが、それを亡国の遊びだというふうに根底から批判しつくすという意見が大展開されたということはなかったのです。

   作者 司馬遼太郎氏 が語っているのを聞いたことがあります(多分NHKのテレビ番組だったと思います)。「私はノモンハンについて書くつもりで調査をしました。しかしいざ書くとなると手が震え血が逆流し心臓が爆発してしまいそうになり、とても書けませんでした。」正確ではありませんが、そのようなことを語っているのを聞いたことがあります。出先機関が勝手におこした戦争が、やがて満州事変となり更に太平洋戦争になります。

 

   ひとつには日本の知識人の教養に、軍事知識という課目がなかったことがあるでしょう。

   ローマ時代もローマ市民は全て兵役の義務があったし、元老院のメンバーはいざ戦争となれば指揮官として出兵します。つまり政治と軍事は不可分だったのです。明治の元勲もほとんどが、内戦ではありますが戦いを生身で知っていました。又 米国では、海軍兵学校や陸軍士官学校出身でない普通大学卒の提督や将軍が第二次世界大戦で艦隊や師団を直接指揮しています。とても帝国陸海軍では考えられません。

 

   当時(明治10年)でさえ文明とは軍事を伴わないなにか光輝く、天使がいるような天国のようなものらしいという気分があったのだと思います。つまりリアリズムの希薄さです。戦後は、軍事に触れるだけでも具合が悪いという細菌恐怖症のような気分が続いています。現実をきちっと認識しない平和論は、かえっておそろしいですね。・・・中略・・・ともかくも、明治・大正のインテリが軍事を別世界のことだと思いこんできたのが、昭和になって軍部の独走という非リアリズムを許したのだと思います。

   防衛大学校以外の大学なり専門学校で軍事あるいはその関連の単位をとれるところは日本にあるのでしょうか。歴史学でも戦史をクローズアップして学ぶところはあるでしょうか。現在、日米で問題になっている沖縄の基地移転問題もそれに関連する政治家、官僚が軍事を正確に把握し更にそれに基づく世界観を共有すればまたちがった容相を呈することになると思われますが。

 

   平成21年11月17日


 
 

旧友との往復書簡

 

私が以前勤めていたM電機時代からの古い友人で現在その会社の労働組合の委員長をしているT氏がいます。
そのT氏は数年前より月1〜2回のペースでメールを下さいます。
その時候時節にあった考えを広い識見と深い洞察力もって文章にしており、私にはたいへん勉強になります。時折、私も拙い文章を折り返しメールしています。
今回ここに掲載したのはその中の一部です。
尚、今回のコラムアップについてはご本人の了解をとり、更に一部編集させていただいた上で公開させていただいております。

 

    2008426日 T氏からのメール

 上戸・下戸の酒談義と新たな予感

 読売新聞日曜版に「酒ひと話」という養老孟司氏の連載コラムがある。
 養老孟
司氏は、今はお酒を飲まれないそうだが、413日付のコラムには「正直なところ、私は世間や人生を酒場で学んだ。そう思う。そのためにお金も時間もずいぶん費やしたはずだが、人生の授業料としたら、決して高くなかった」と語っている。
 私自身の体験においても、酒や酒の場を通して教えられたことが、実は山ほ
どある。
 
「酒に十の徳あり」と言う。酒には十の長所があって、「百薬の長、寿命を延ばす、旅行に食あり、寒気に衣あり、推参に便あり、憂を払う玉箒、位なくして貴人と交わる、労を助く、万人和合す、独居の友となる」
(故事ことわざ事典・新文学書房)の十徳である。
 「酒に十徳あり」としても、悲しいかな、下戸には
縁がない。
 
間違いなく上戸の横綱級である作家・立原正秋氏は、随筆「秘すれば花」で、「五代史」に「酒有別腸」という言葉があると紹介している。
 「酒には別腸有
り」と読み、「酒を飲むには、特別のはらわたがある、との意味で、言いかえると、酒量の多少はからだの大小にかかわりがない、ということである」と述べている。
 フルコースの食事で十分満腹しても、「デザートは別ばらです」といって、ケーキでもアイスクリームでも、パクパクと見事に平らげる脅威の主がいるが、それと同じである。
 「酒有別腸」とは、身体が小さくても、酒の2升や3升は平気で
平らげ、顔色ひとつ変えない人であろう。まさに酒用のはらが、別に兼備されているに違いない。
 
労使関係に携わる人は、一般論として、労や使を問わず酒徒が多い。
 しかし、
労使関係にあって、上戸か下戸かは本来関係ない。
 打ち溶けて語り合える関係こそ、
大切なのだ。
 
現在は一滴も飲めないとおっしゃる会社幹部のH氏には、新たな時代を 感じさせる。
引き続き健全で、より健康的な関係が築けるのではないかという予感が、実はしている。

 
    2008
428
 I氏へ返信 

  おはようございます。
 酒の好きな
T委員長ならではのお話ですね。
 
私は適当に飲みますが上戸、下戸ごちらかにといえば下戸に分類されると思います。
 
酒のアルコールを分解する機能は肝臓にあることは知られていますが、肝臓の酵素がアルコールを分解します。
 問題は誰もがこの酵素を持っているわけでは
なく日本人の50パーセントはこの酵素を持ち40パーセントが十分ではないものの持っていますが、残り10パーセントは全くこの酵素を持たないそうです。
 
この酵素を持たない人が酒を飲むと七転八倒の苦しみを味わうことになり、酒の好きな人から見ると何とも気の毒な人々になるわけです。
 
 酒の功罪は人類の歴史以来数多く語られていますが、何れも人の本音をあるいは本音を装った語らい、行いを現すことは間違いなさそうです。
 
最近読んだ本で、佐藤優氏は国と国との外交の最前線でも酒を介して虚虚実々の駆け引きがあると言っています。
 
しかし一般庶民にとっては落語の「長屋の花見」「時そば」のようなのんびり、ゆったりと酒と楽しめるひと時が一番と思います。
 夜
10時過ぎに上野から電車で帰宅するお勤め帰りのビジネスマンが携帯電話で地デジテレビを見ながら缶ビールをおいしそうに飲んでいる光景を見たことがあります。
 見ている私も癒される思いがし、
「今日一日ごくろうさま」 と声をかけたくなりました。
 
 

 
2008121日 T氏からのメール
 
 竜馬の志「日本を洗濯する」は未だ成らず
 
 
坂本竜馬は、恋人で、後ほど妻となった「おりょう」に言った。「アメリカでは、馬の口取りが将軍や大名を選ぶんだぞ」と。
 さらに、「日本では、戦国時代
に領地をとった将軍、大名、武士が、二百数十年、無為徒食して威張りちらしてきた。
 政治というものは、一家一門の利益のためにやるものだということになっている。
 アメリカでは、大統領が下駄屋の暮らしの立つような政治をする。
 なぜといえば、下駄屋どもが大統領をえらぶからだ。
 おれはそういう日本をつくる」(司馬遼太郎「竜馬がいく」より)。
 アメリカ大統領選挙が終わり、新大統領が、114日、バラク・オバマ氏に決 まった。120日に第44代大統領に就任する。
 アメリカの大統領選は複雑である。
 最終的には各政党が
1人ずつ立てた候補者に よって争われるが、各政党はその候補者を決めるための予備選を行う。
 州ごとに
 代議員を選ぶが、代議員はだれを大統領候補として支持するかは事前に明らかに しているため、有権者は間接的に候補を選んでいることになる。
 過半数の代議員
 を獲得すれば、その党の候補者となる。
 
各党の予備選が始まったのが07年の秋で、08114日が大統領選の投票日。
 そして就任は
09120日である。
 新大統領は、実に
1年以上かけて争われてきたことになる。
 ところで、日本の福田康夫首相が退陣したのが91日。
 そして自民党の総裁選で
 4候補を破り、麻生太郎氏が総裁に選出されたのが、わずか21日後の922日である。
 一方、民主党の小沢一郎代表は、
98日、無投票で3選され、24日の国会で の首班指名選挙においては、自民党の麻生太郎氏が第92代、59人目の首相に就任した。
 アメリカ大統領選は、マスコミを巻き込んだ大キャンペーンの中で1年以上かけて争われ、日本の首相はわずか3週間ちょっとで新首相が選出される。
 日本の首
相が短命であるのは、このことをもってしても明らかというべきか。
 竜馬は、勝海舟やジョン万次郎からアメリカ事情を聞かされ、アメリカの人民平等思想というものの虜になる。
 江戸末期の革命前夜、竜馬は「アメリカの大統領
 は下女の給金の心配までするという。
 日本の将軍は三百年、そういうことをした
ことがあるか。
 この一事をもってしても幕府は倒すべきである」(同)と宣言した。

 時代は、竜馬や勝の活躍によって明治維新となり、その後に議会も開設され、日本にも民主政治の礎ができた。
 ところが、
150年経った今も民主主義国家とは名 ばかりで、現実はあまりに貧困である。
 「日本を洗濯する」と言った竜馬。
 
竜馬の志は未だ成らず、である。
                                        

  

2008122 I氏へ返信
 
  政治考
 
 T氏の考えはその通りと思います。ただ一点、坂本竜馬の言ったことがすでに実現しています。
 貧しい農家のせがれが日本国の宰相になっています。一応民主主義国家としては先進国として誇って良いと思います。問題は政治家の資質と学習能力そして経験ではないかと思います。従来はこの国は官僚、特に高級官僚が国家を主導し運営してきました。しかし官僚が俗人になってきたのか市井に生きる人々の能力があがったのか あるいは両方か。ともかく従来の国家の運営は制度疲労をおこし破綻しつつあることは間違いありません。これを打破して改革できるのは政治家しかいません。しかし一年に一度以上も猫の目のようにかわる国のトップ、大臣達にはとうてい行政を真に改革するのは不可能と思います。
 まして日本が国内の問題解決だけで成り立つ立場になく世界を視野にいれなければならない今。

 どうするのがいいのか、米国のように大統領制がいいのか、では韓国、フランスはうまくいっているのか。英国、イタリアのように内閣制がいいのか。
 どちらにせよ国家のトップは最低45年はじっくり腰をすえて国家を指導でき、しかもその能力を十分に持っている政治家が選ばれる必要があると思います。
 二大政党制はどうやら根付いたと思います。これは国民にとって重要なことで、選択することができます。あとは歴史の評価に耐える強いリーダーの出現が必要と思います。問題は強いリーダーがいないのかそれとも制度上生まれにくいのか、だと思います。
 

  *事業、特に公共の事業に携わっていると国の行く末を案ずる気になるのに時間はかかりません。建築、土木公共工事はその最たるものです。
 まさに役人が
23重に食いものにしています。資格制度、請負保証制度、退職金制度等、あきれるほど支払いがあります。それらはほとんどが「財団法人」、「社団法人」などに支払われます。そして実際には社会還元されません。その組織内で消費されます。                                  
小野 裕司


 

最近の感動作
  

1.TVドラマ「DOOR TO DOOR」〜僕は脳性まひのトップセールスマン〜を見ました。(平成21年3月29日 TBS放映)アメリカの実在のトップセールスマン、ビルポーター氏をモデルに日本版に作り直した作品です。

 脳性まひの障害のある22歳の青年が、専門学校を卒業したあと母親の応援の基に浄水器の訪問販売の会社に入社します。その母親の息子への愛情は一人の青年を自立させるに充分であるにしても、その「明るさ」曇りのない輝くばかりの光彩は何にも増して素晴らしく思いました。さて、息子は仕事を初めるのですが、右半身に障害を持ち、発音もままならない身で世間の冷たさを充分に思い知らされます。しかし彼は、母親の明るさそのままに迷惑顔だった周囲の人々の心のドアを開きます。そして人々を完全に自分の応援団にしていきます。

 その後も会社の倒産、転職、彼の世話をしてくれ愛情を注いでくれた母親の入院闘病、そして死を経験しながらも、周囲の人と会社の同僚の応援を得ながら、仕事上の新企画を成功させトップセールスの座を堅持します。

 ビルポーター氏は健在で77歳の今もドアからドアへ訪問販売を続けており、全米で2,000人の方が彼がドアのベルを押している姿や訪問のため道を歩いている姿を目撃しているそうです。

TVで主演の二宮和也君と母親の樋口可南子さんの演技は抜群で、特に二宮和也君の障害者は見ているだけで胸に迫るものがありました。

いずれ再放送があると思われます。営業を職業としている方に限らず全てのビジネスマン・ウーマンにぜひご覧いただきたい作品です。
  

2.「望郷の道」北方謙三著、上下巻を読みました。

2007年8月から2008年9月まで日本経済新聞に連載され、毎日それを読むのを楽しみにしていました。本年2月に単行本になったので、改めて読み直しました。

 一般に二回読むことのできる本は少なく、私の中では二回読むことの出来る本は名作だと評価しています。二回目も夢中で、三日間で読んでしまいました。

 前半(上巻)は明治中頃の福岡を背景に博徒といわれる主人公正太と、同じく女性ながら博徒の一家を受け継ぐ瑠イ(王へんに韋。以降ルイと表記)とが結ばれ、正太がルイの家に養子に入ります。

ここでの正太一家が織り成す人間模様は、現在の私たちが忘れかけている日本の仁と義が見事に表現されています。組織の頂点に立つリーダーの仁と、それを支える女房 (パートナー)は今も社会背景は異なるものの会社を経営するリーダーに必要とする 重要な人間的要素と思われます。さらに正太は常に帳簿を几帳面にチェックし一家の収入支払を把握しています。当時の親分としては大変めずらしいタイプかもしれませんが、見事に一家の団結と繁栄を築きます。後半(下巻)は福岡を追放された正太が単身苦労しながら台湾に移ります。文字通り裸一貫からお菓子を作る工場を設立します。途中からは妻子も合流しルイと共にキャラメル、和菓子などを生産します。地元の住人との軋轢、材料の入手、ライバルとの戦い、銀行との付き合い、新商品の開発などまさに現代のビジネスそのものが躍動します。後半はビジネスの教科書としての価値が充分にあると思います。

 新聞の連載を読んだ後は、単行本はいつ発売されるのかと気にしていました。単行本を手に入れると次はいつ映画化されるのだろうと気にしています。そのスクリーンでの主演者正太役は誰か、ルイは女優さんのどなたか等と空想して楽しんでいます。願わくば読者のイメージ通りのキャスティングであることを祈っています。

 

2009年3月30日
   小野 裕司


 

 

明大ラグビー北島監督の思い出
 
 

 明治大学ラグビー部を率いて67年、1996年95才で亡くなられた北島忠治監督についての思いを記します。
明大ラグビーのOBラガーマンと話をすると、必ず話題の中心はこの北島監督です。
私が直接話しをしたOBラガーは、50才をすぎた今でも、かつての荒くれ男の名残を残している人も少なくありません。
その人たちが「北島先生」と未だに口を揃えて話しをします。
この北島先生とは、どんな方なのでしょうか。
 
 
私自身も明大のラグビーグラウンドの八幡山に何度か行っており、直接目にしています。
今から35年も前のことです。
当時監督は、70才を超えており、すでに老監督の域に達していました。
身長は166p細身で、現役ラガーの中に入るとたいへん小柄でした。
いつもタバコをくわえて、スタンドのベンチから練習や試合を静かに見ていました。
 
 
ある日見かけた風景に、練習も終わりのころ階段を降りてフォワードの輪の中に入り何やら話をされました。
その後、一人のプロップに話しかけました。
プロップの選手は180p、100kgもある大男です。
話が終ったかと思った直後に、そのプロップと監督は一対一でスクラムを組んだではありませんか。
私は、驚きました。
怪我はしないのかと心配でした。
とても体力では、勝てる相手ではありません。
しかし、10秒〜20秒の後、その体勢が終った後に、更に何かをしきりに話をして終りました。
70才の老ラガーが、20才前後の若者に体を使って教え込んだ姿に、私は本当に感激しました。
 
 
更に私が目撃した風景があります。
これはTVを通してですが、1970年の中ごろやっと明大の戦車フォワードが復活し始めた頃のことです。
大学ラグビーは、早大が席巻していました。
その年の12月の対抗戦グループは、明大が復活の兆しはあったものの接戦の末、早大に敗れました。
敗戦直後の北島監督へのTVインタビューで
「お正月の大学選手権で再度対戦することがあると思いますが、勝算はありますか?」と、聞かれ
「あぁ勝ちますよ」と、いとも簡単にあっさりと答えました。
私はたいへん興味を持って、正月の早明戦を見守りました。
結果は、明大の快勝でした。
明大戦車フォワードを率いて、『前へ』がスローガンでした。

 十訓と言われるものがあり、その中に
 
  『勇猛果敢たれ』
 
  『躊躇せず突進せよ』
 
  『全速力でプレーせよ』
 
  『最後まであきらめるな』
 
この四訓が有名です。
 
『最後まであきらめるな』には、次のような解説がありました。
「人生や仕事において勝てないはずの相手に勝ったのは、最後まで諦めなかったからだ。
負けるはずがないのに負けたのは、最後に諦めたからだ」
更に、『前へ』とは「ボールを持ったらタックルに来るプレーヤーに真っ直ぐ当たれ、最短距離でゴールを目指せ」ということです。
 
あるフォワードの選手が試合中に、敵陣ゴール前でボールを持ってステップ 敵方がタックルにくるのを横にステップを踏んで避けること)を踏みました。
試合後、監督はその選手に「お前は人生そうやって生きるのか」と言ったそうです。
 
北島監督は、1929年から明大でラグビー部監督を務めるのですが戦後、部の寮が火事で焼失します。
そのために、新潟の自宅を売り払い、その資金で部の寮を
再建します。
後年、OBたちが資金を持ち寄って寮の近くに、監督の家を建てます。
こんな交わりが、監督と選手OBの間にあったのです。
最近、各界のスポーツのキャプテンにインタビューをすると
「○○高校のサッカーをやれればよい」
「△△大学の野球をやる」
などと受け答えをします。
このフレーズを日本で初めて使い、それを信念にしていたのは、私の知る限りでは北島監督だと思っています。
「明大のラグビーをやれ」
「明大のラグビーをやれれば負けるはずがない。」
「必ず勝つんだ」
と常に言い切っていました。
テレビや雑誌のインタビューでもよく言っておられました。
早大の大西鐵之祐監督は「勝つためにどうしたらよいか」が主題でしたが、早大と明大のラグビーの根本的な考え方が、明確に分かる気がします。
 
 以上、私の明大ラグビーと北島監督の思い出やら感想ですが、このところの明大ラグビーの低迷が続き少しさみしく思われます。
しかし、選手層を見ていると人材は十分ですし、昨年12月の対抗戦での早大への久々の勝利は、今年からの復活のきっかけと思える試合でした。
やはり早明が拮抗してこそ、日本のラグビーが活性化する思いがします。

今年の12月が楽しみです。

 

2009年1月12日
   小野 裕司

 

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